書評 針間克己医師「エビデンス重視のジェンダー医療を」(月刊正論7月号)
美山みどり
産経新聞社発行の月刊誌「月刊正論」の上で、針間克己医師による文章が発表されました。
針間医師といえば、精神科医として2003年性同一性障害特例法を主導した一人であり、特例法による戸籍性別変更のための診断書を一番たくさん書いた医師としても知られる名実ともに「性同一性障害の権威」です。
その針間先生の発言は、現場に携わる医師としての率直な意見であり、特例法についての「現実」を当事者以外で一番よく知る立場として、特例法の改正論議にも強い影響を持つことでしょう。私たちも当事者としてのリアルな立場から、この特例法についてたびたび発言をしてきたのですが、やはり同じ現実を知る者として、針間先生とも相通ずる認識を持っていることがこの文章でも明らかです。
そんな立場から、この針間先生の「エビデンス重視のジェンダー医療を」を紹介します。元の文章は月刊正論7月号に掲載されています。
月刊正論 2024年 07月号 [雑誌] www.amazon.co.jp
書評というものの性質上、この文書は私美山みどり個人の見解です。もちろん会のメンバーにはまず読んでいただいておりますが、あくまで美山個人の責任の発言としてお読みください。
WPATHファイル流出事件の衝撃と日本の現状
この3月にWPATH(世界トランスジェンダー健康専門家協会)という、トランスジェンダー医療のガイドラインを発表し、それが国際的に様々な国やWHOなどでも採用されている団体があります。この団体から内部ファイルが流出し、「トランスジェンダーの人権」を謳う団体がその医療の中で、不十分なインフォームド・コンセントや不十分なエビデンスの元に、一方的な押し付けのような医療行為を繰り返していたことが明るみに出たのです。
WPATHから流出したファイルにより、世界的なトランスジェンダー医療機関における、子ども達や社会的弱者に対する広範な医療過誤が明らかに – ジェンダー医療研究会:JEGMA WAPTHの流出ファイル プレスリリース:JDA Worldwide for Environmental Progress www.jegma.jp
今まで権威であり、ジェンダー医療のガイドラインの大元として強い影響力をもってきたこの団体の一大医療スキャンダルによって、ジェンダー医療への信頼が揺らぐという事態に発展しています。
この状況のもとで、日本では昨年の2件の最高裁判決を受けて、今後どのようなかたちで性同一性障害特例法を改正・運用していくかについての政治的なアジェンダが浮上しつつあります。しかし、この最高裁判決が依拠した論拠の多くには、このWPATHの方針が強く影響していたわけでもあり、もはや単純に「国際機関がこう言っているから」で追随するわけにはいかない状況になってきています。
私たち当事者としては、「最高裁がこういう判断をしたから」で拙速に特例法を改正することには反対です。なぜなら、単に法律論では扱いかねる、具体的な医療と、その医療体制の確立、診断基準の確立など、「人権」という言葉で簡単に片づけることができない複雑な問題が絡み合っているからです。まず、どのような医療体制が可能なのか、診断基準はどうすれば問題がないのか、など法律論以外の部分での議論が先立って必要なのです。それでなければ、思い込みで性別移行して後悔する人を量産する、あるいは逆に性別移行基準が厳しくなるだけだったなどという結果にもつながりかねません。
もちろん今「一日診断」と呼ばれる、専門外の医師による名目だけの診断によって「性同一性障害の診断書を販売する」ようなモラルを欠いた行為が横行している現実もあります。このような不心得な医師を排除する制度的な仕組みも必要ですし、また教育現場などで「子供がトランスジェンダーになるように扇動する」かのような方針を掲げる人々から、未成年者の精神的ケアを守らなくてはならないことも急務です。その場合に本当の性同一性障害の子供の立場をうまく取り扱うことができるような、イデオロギー的ではない対応もまた別途考えるべきでしょう。
法律ができることはごく一部なのです。現実の医療が提供できることの上にしか、法を作ることはできないのです。
実際、針間先生は、
日本のガイドラインというのは性転換手術を闇で行ったとして医師が有罪判決を受けた昭和三十九年のブルーボーイ事件を機に策定されたものです。事件に対する反省があって、WPATHを参考にしながらも、医師が訴追され、有罪判決を受けるという重大性から、「無茶なことはなしない」というのが、日本の医師のコンセンサスになっていたのです。「日本のジェンダー医療は遅れている」「ガラパゴス化している」などと逆に批判されることもありましたが、手堅い医療的アプローチを重視する姿勢が伝統的に引き継がれていたのです。
「エビデンス重視のジェンダー医療を」(月刊正論7月号) p.87
と述べて、日本のジェンダー医療が必ずしもトランスジェンダリズムに染まっているわけでないと考えています。少なくとも特例法の第2条で、
第二条 この法律において「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。
性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
法律第百十一号(平一五・七・一六)
医師2名以上の一致した診断を求める内容を、否定する論調はごく一部の過激なセルフID主張者を除いてはありませんし、これはWPATHが「脱病理化」を叫んでさえも専門医の間では相手にされていません。
ですから専門医の間ではこの第2条の運用をどう改善するか、がポイントとなるでしょう。なんらかの資格制度、たとえば精神保健指定医などと同等程度のものが必要となることでしょう。医師である以外の資格がまったくない現状が早急に是正すべき大問題なのです。
エビデンスベースの医療の再構築に向けて
医学は科学です。科学であるからには、さまざまな間違いを繰り返しつつも、その間違いを自ら訂正し修正することによって、前に進んできたわけです。イデオロギーが科学を支配し「人権的・政治的に間違っている」として批判を封殺すれば、それは科学ではありませんし、世の中にも重大な害悪を流すことは必然です。
WPATHは人権の美名によって、このような科学を軽視したために、一番犠牲になったのは丁寧な診察とカウンセリングなのです。イデオロギーの結末は責任放棄になるのは不思議ではありません。
ところがガイドラインではトランスジェンダーの人権にも配慮して、出来るだけ早く治療することが患者のためだ、となりがちです。特にWPATHは医療的なガイドラインの随所に、トランスジェンダーの健康という観点から人権運動の理想論的な要素が入って影響を受けました。
「エビデンス重視のジェンダー医療を」(月刊正論7月号) p.89
実際、ガイドラインの改訂を重ねるうちに、かつては存在していた「十分な心理カウンセリング」を課した事項や、「一定期間、例えば一年近くは様子を見たうえで手術する」といった項目は、省略化、簡略化されていきました。
思春期の「トランスジェンダーになりたい少女たち」に必要だったものは、まさにこの「十分な心理カウンセリング」だったのではないのでしょうか。患者の言いなりになることが「人権」でもありませんし、また患者の利益でもないのです。
私たちは当事者として、後悔して泣く人がいることに心を痛めます。ジェンダー医療で幸せになった私たちが「悪い手本になってしまったのか?」という自責の念もないわけではないのです。ジェンダー医療を受ける人はそれによって幸せになって欲しいのです。間違った自己認識でジェンダー医療を要求するのならば、医師が「門番」としてジェンダー医療を拒絶するのは当然のことと考えます。
そして、ジェンダー医療を拒絶する場合にも、しっかりとした心理カウンセリングによって、抱える問題を解決することを望みます。また不幸にしてジェンダー医療を後悔して元に戻したいと考える場合には、「イデオロギーの裏切者」視して無視するのではなく、十分なサポートと再出発への助けが得られるべきであると考えます。
このような丁寧なプロセスを「人権重視」という美名が破壊するのです。患者のいいなりが「人権尊重」なのでしょうか?
私にはそうは思えません。
意外に思う方もいるでしょうが、日本のジェンダー医療は、米国と違ってエビデンスベースの治療を重視しているのです。この三月に「GID学会」が「日本GI学会」に名称を変更しました。このとき、新しい名称を「トランスジェンダー健康学会にすべきだ」という意見もありました。日本にも理想ベースで、トランスジェンダーの人権や健康を重視しようという考えがないわけではありませんが、主流の考えは依然として医療ベースを大事にしていくというもので、当事者の多くもこれを支持してくれています。人権モデルよりも医療モデルが支持されている珍しい国です。
「エビデンス重視のジェンダー医療を」(月刊正論7月号) p.90
まさに私たち「特例法を守る会」の主張が、専門医の間でも主流なのです。医療モデルを守ることで、女性たちとの利害調整も可能にもなります。日本ではマスコミや左派野党がどう騒ごうとも、「人権モデル」は少数派にとどまり、当事者の多くはLGBT活動家が主張する、医師の診断なしに自分の希望だけで戸籍性別を変更できる「セルフID」を支持しないのです。医療モデルこそが当事者のニーズに即しているのです。
ですので、この医療モデルベースの制度の再構築が必要となります。そのためには急ぐ必要はありません。まず専門医団体が意見を統一し、よりよい制度のために法制度とリンクした診断モデルを確立し、また標準的なジェンダー医療のガイドラインを、WPATHのものではなく独自に再構築すべきです。
今こそ「海外の進んだ状況を日本にも輸入しよう」という拝外思想から脱却すべきなのです。これほど失敗に失敗を重ねた「人権モデル」を日本に輸入する必要はないのです。
思春期ブロッカー問題
WPATH ファイル流出と、それに続いて、タヴィストック・ジェンダー・クリニック閉鎖などの結果になったイギリスの未成年ジェンダー医療について、著名な小児科医ヒラリー・キャス氏に調査を依頼してまとめた「キャス報告書」の公表によって、とくに思春期ブロッカーの問題がクローズアップされました。
第二次性徴を抑制し、ジェンダーの選択を後伸ばしにできる魔法の薬
としてジェンダー・イデオロギー信奉者の間で喧伝されたのが、思春期ブロッカーと通称されるリュープリンです。しかし、これには骨の成長を阻害して骨粗しょう症を起こす、頭がぼおっとして学業に差し支えるなどの問題がいろいろあることも報告されています。いや実際にはこのリュープリンは前立腺がんや閉経前乳がん、思春期早発症などの治療薬として認可されていますが、日本でもアメリカでも思春期ブロッカーとしての利用はあくまで実験的なものになります。またヨーロッパではこの思春期ブロッカーの利用を禁止する動きもあります。
針間先生は
思春期ブロッカーの効果や有害性に関して判断するのは論文レベルではまだまだ不十分だと私は思っています。ある程度の蓄積はあるが。しかし、効果があるのか、ないのか、それを結論付けるだけの十分な蓄積がない。そういうレベルです。
「エビデンス重視のジェンダー医療を」(月刊正論7月号) p.89
と慎重な判断を下しています。とはいえ、GI学会の理事でもある医師が主導したとされる百例ほどの投与例が日本でもあると聞きます。
私には思春期ブロッカーを患者に投与した経験は一例もありません。
「エビデンス重視のジェンダー医療を」(月刊正論7月号) p.89
実際、日本では多くの場合は医師がそうした選択をしていますが、約百例、投与に至った事例があります。これは、ほとんどが西日本の一部の大学病院で、精神科医がしっかり診て、どうしても必要だと判断し、手厚いサポート体制のもとで行われた十年間の蓄積です。
と針間先生は実態を報告しています。とはいえ、このように思春期ブロッカーの危険性が取りざたされる状況について、やはり日本の医師も責任を持つべきでしょう。この約百例の事例についての、今時点での状況の再調査を含む再評価を公開し、この思春期ブロッカーという実験的治療の正当性について誰もが議論できるようにすべきです。こうしなければ日本の医療がトランスジェンダリズムに染まって未成年者のジェンダー医療を強行する方向に向かっているのでは、という余計な疑念を払拭するのは難しいことでしょう。
おわりに
針間先生も本稿で「エビデンスをベースにした医療」を訴えていますが、法制度だって同じことです。私たちについての調査は、残念なことにLGBT活動家によるNPOが主導する、「その団体周辺の人たち」のごくわずかな母数の調査が大半なのです。これではエビデンスもなにもありません。ただただ政治的に利用しやすい恣意的なレポートが上がってくるだけです。
ですから、範囲が曖昧な「トランスジェンダー」ではなく、明白に当事者である戸籍性別変更者からその実態調査を行うべきなのです。特例法を使って戸籍性別を変更したのはこの二十年間に1万人強しかいないのです。私たち戸籍性別を変更した人が、現在どのように生きているか、満足しているか、ジェンダー医療をどう考えるか、特例法をどう捉えるかなどの、包括的な調査が急務だと考えています。戸籍事務と家庭裁判所を統括する法務省が主導すれば、これは容易なことのはずです。このエビデンスによってしか、やはり当事者のニーズに即した法律は作ることができないと、改めて当事者としても主張します。
針間先生のこの記事は、リアルな現場の声です。
私たちはイデオロギー上の存在ではありませんし、政治のコマでもありません。性同一性障害特例法はそんな「私たちのリアル」に寄り添った「良い法律」でした。それを海外直輸入のジェンダーイデオロギーによって破壊することに、私たちは怒りを持って立ちあがったのです。
私たちの未来を「意識高い」「流行」といった軽薄な「思想」によって歪めないでください。
(「手術要件を外すことだって当事者団体が反対していたくらいで….」うれしいです!)