2023年10月25日、性同一性障害特例法についての最高裁判決が出ました。これを受けて当会の参加する「女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会」は以下の声明を出しました。こちらのリンクよりPDFでもご覧になれます。(同一文章です)

最高裁判決についての女性スペースを守る連絡会の声明

2023年(令和5年)10月30日

声    明


女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会

女性スペースを守る会 

性同一性障害特例法を守る会 

平等社会実現の会 

白百合の会 

No!セルフID女性の人権と安全を求める会 

性暴力被害者の会 

性の権利を守るトランスの会(旧 性別不合当事者の会)

及 び 有 志 (順不同)


 当連絡会は、10月25日、最高裁大法廷(裁判長・戸倉三郎長官)がした、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律に関する決定につき、次のとおりの声明を発する。

 最高裁判所大法廷は、上記特例法3条4号の「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。」につき違憲とし、5号の「その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。」については高裁段階で主張も憲法問題も検討されていないとして、自ら判断はせずに審理を広島高裁に差し戻した。憲法判断としては、15人全員の一致で4号生殖機能喪失の要件は違憲とし、三浦、草野、宇賀の3人の裁判官は5号の外観要件も違憲だから差し戻しせずに変更を認めよとして反対意見を示した。

 最高裁のとんでもない暴走である。それも制度上、相手方がいない法廷、申立人側の主張や立証だけの裁判にて、国会が定めた特例法の生殖腺機能喪失要件を違憲としてしまった。うち3人は外観要件についてもわざわざ違憲と判断した。

 それは、女性の権利を劣後・矮小化した暴走である。女性が差別され、不利益を被るのは、性別(SEX)を根拠としているという歴史的事実を無視して、つまりは男性の身勝手・女性の侮蔑・差別主義である「性自認至上主義」に侵された最高裁になってしまっていた。

 決定文は、いかに相手方が存在しない裁判であって申立人側とは見解を異にする主張に触れられなかっただろうとはいえ、この数年間ますます明らかになってきた様々な実態になんら言及していない。すなわち先行した国々で女性の安心安全が害されている状況、イギリスが正常化に舵を切り苦労している実態、国際水泳連盟や世界陸連では男性としての思春期を幾分でも経験した者は女子スポーツ選手権への参加資格がないとしたこと等の言及さえない。15人の裁判官はなんら知らないままなのだろうか、不勉強が極まるという外はない。

 決定文から読みとれることは、既に問題を露呈し続けているという外はない「性自認は他者の権利法益より優先すべきである」とする「性自認至上主義」に基づく論理展開ばかりである。

 まさに最高裁の暴走である。


 今回の最高裁決定には、下記のごとき文脈までもあり、批判を免れない。

①  「生殖能力の喪失を要件とすることについて、2014年(平成16年)に世界保健機構等が反対する共同声明を発し、また2017年(平成29年)に欧州人権裁判所が欧州人権条約に違反する旨の判決をしたことなどから(6ページ)」

②  「性同一性障害者がその性自認にしたがった法令上の性別の取り扱いを受けることは、(中略)個人の人格的存在と結びついた重要な法的利益である(7ページ)」

③  「本件規定がなかったとしても、生殖腺除去手術を受けずに性別変更審判を受けたものが子を設けることにより親子関係等に関わる問題が生ずることは、極めてまれでことであると考えられる(8ページ)」

④  「そもそも平成20年改正により成年の子がいる性同一性障害者が性別変更審判を受けた場合には、「女である父」や「男である母」の存在が肯定されることとなった(8ページ)」

⑤  「強度な身体的侵襲である生殖腺除去手術を受けることを甘受するか、又は性自認に従った法令上の取り扱いを受けるという重要な法的利益を放棄して性別変更審判を受けることを断念するかという過酷な二者択一(8ページ)」等々である。


 右の①の、世界保健機構、欧州人権裁判所の判決などを無批判に記載したままであることは、信じがたい。申立人側の主張そのままであろう。

 国連の人権機関は、日本に対し死刑制度を廃止すべきと数十年も前から何度も勧告している。それでも、日本は死刑を廃止していない(なお、当連絡会は死刑制度の存否についての意見はない)。違憲だという下級審判決が出たこともない。死刑制度の違憲性の判断は具体的には刑事裁判の中で争われる。検察官は弁護側に対抗し国民の関心がある中で死刑制度の合憲性を説明し、裁判所が判断する。一方で、手術要件については家裁、高裁そして最高裁でも、検察官も国の訴訟を担当する訟務検事などその他の相手方が居ない。ために、死刑制度の論議と比較して、最高裁は課題に対する真摯な姿勢を失っているのではなかろうか。

 最高裁はまた、③の生殖腺機能喪失要件がない場合は「女である父」「男である母」が生じる可能性が相応にあることを知るべきである。従前から女性という性自認を持ちながら父となった方も相応に居るのだから、生殖腺を失わずに性別変更ができるのであれば「父である女」が続々と出現すると予想される。女性から男性へという静岡家裁浜松支部のこの10月11日付審判事例の類型に相当する方の場合でさえ、メディアで報道されている通り乳房切除までもしたがパートナーとの間で子を設けた例もある。性別変更が認められていれば「母である男」となる。決して稀なことではなくなる。

https://www.hbc.co.jp/news/904c73d0a07a95672d701742821dfdd9.html

 ④の特例法の平成20年改正は、子の福祉のために、未成年の子がいる場合には「女である父」や「男である母」とはしないままとしている。まして子の出生時点にあっての「出産した母だが男」「生物学的な父だが女」という事態は、まったく段階が違う課題である。


 そもそも、「性自認は女だが書類上の性別は男という食い違いには耐えられないが、トイレや風呂でいつも見る精巣のある自分の体と性自認の食い違いには耐えられる」という事態は、どういうことだろうか。日々見る自らに精巣・陰嚢がある、これからも父となる可能性もあるにかかわらず、書類上の肩書の違和には耐えられないからとして法的女性になることを認めて良いのだろうか。

 特例法は、身体違和がきつく固着し、自ら希望して性別適合手術をした人の生活の不便さを考慮して法的性別の変更を制度化したものではなかったか。すでに法的性別を変更している方々が社会で一定の社会的信頼を得て生活しているのは、自ら望んだ手術を終えているからこそであるのに、その前提を欠けば皆の信頼が失われてしまう。最高裁はそれをどう捉えているのか。

 まして精巣の除去は卵巣や子宮の除去に比較して実に容易である。精巣を持ったままに、書類上である法的性別を女性に変更することが、どうして上記の②の「人格的存在と結びついた重要な法的利益」と言えるのだろうか。どうして⑤の生殖腺機能喪失要件が「過酷な二者択一」だといえるのだろうか。

 身体違和がさほどきつくなく精巣の除去を含めて性別適合手術を必要としない方は、法的性別を変更しようとしなければよいのである。変更せずとも生活に差し支えない社会を作ることこそが重要ではないのか。女性だと認識しいわゆる女性装を日々する人も、排泄は認識からではなく身体からするのだから男子トイレに入ることも相応にある。その際に時に男性から揶揄され、時に暴力を受けることがある。それこそが排除であり差別であろう。法的性別を変更して女子トイレを利用する権限があるなどとする前に、男子トイレで男性からの揶揄・暴力のない状態にすることが重要な人権ではないのか。

 はたして、憲法13条幸福追求権として、精巣があるままに②の法的女性になることが「人格的存在と結びついた重要な法的利益」として保障されるべきなのだろうか。日本にあって国民的に議論され、社会的に承認された考えだとは到底言えないのではないのか。


 最高裁は、女性スペースにおける女性らの安心安全という生存権を、いったいどう考えているのであろうか。女子トイレなどができた背景を考えたのであろうか。

 性犯罪は、圧倒的に生得的な男性からの女性や子どもに対するものである。また、性同一性障害であろうとなかろうと、生得的な男性は、体格、身長、筋肉ともに一般に女性より優位にある。強姦事件で妊娠の可能性があるのももちろん女性である。すなわち、女性スぺースにあっては、性同一性障害者を含む生得的男性すべてに比較し、女性こそが弱者の立場でありマイノリティである。性犯罪目的の男の一定数は、生殖腺除去を要せず、更に5号要件である陰茎の除去もなくなることとなれば、何としても法的性別を女に変更するよう努力するだろう。最高裁は、女性の安心安全という生存権を劣後・矮小化してしまったのである。

 あるいは、5号の外観要件までも違憲とわざわざ記載した3人の裁判官のように、共同浴場では身体的特徴によると法律で定めればよいと言うのであろうか。それでは、女子トイレはどうするのか、更衣室はどうするのか、シェルター、病室はどうするのか、刑務所はどうするのか、統計はどうするのか。「法的性別」が曖昧なものとなり概念として混乱するばかりとなる。


 最高裁は、「性別」を蔑ろにしている。性別は、動物である以上は現生人類が成立する前からある男女の区別である。血液型や年齢などと同様に生得的なものであり「所与の前提」である。

 最高裁は、「性別」を時代と地域で異なる「らしさ・社会的役割」である「ジェンダー」とを混同しているのではないか。どのような「ジェンダー」をまとうかは、それぞれの幸福追求権の一環として自由であり、これに縛られてはならない。生得的男性がいわゆる女性装や仕草をすることも、その逆もまったく自由である。各個人がいかなる性自認を持とうとまたいかなる性表現をしようと、他者の権利法益を侵害しない限りは自由である。それが、憲法の拠って立つ自由主義であったはずである。

 他方、法的性別は、制度の一部であるから、他者に「そのとおりに対応せよ」という強制の要素を持つものである。既に約13,000人が生得的性別は変わらないことを前提としつつも法的性別を変更している。特例法はこの19年間、特に社会的不安を起こさずに機能してきた。

理由は単純である。法的女性とは精巣の除去、陰茎を切除した人であることが前提となっており、それが性犯罪目的などにより、男性から女性に法的性別を変更する人はまずないというハードルになっていたからである。特例法は、あくまできつく固着した身体違和を解消するために、自らの意思で性別適合手術までした人に対する個別救済法である。制度だから他者に「そのとおりに対応せよ」という強制の要素を持つが、いわゆる手術要件を中核とするからこそ、全会一致で成立した。決して、性別適合手術をするか法的性別の変更をあきらめるかを迫るといった「過酷な二者択一を迫る法律」ではない。

 また、この6月成立の理解増進法は、いわば「性の多様性」を承認し理解増進をとしているのであって決して「性別の多様性」を認めているものではない。ジェンダーアイデンティティがいかなる者であっても尊重されるが、「それにしたがった法令上の性別の取り扱いを受ける権利」を予定したものでは毛頭ない。その第12条に「全ての国民が安心して生活することができることとなるよう」とするなどした立法過程を見れば明らかである。

最高裁は、「性別」というものを蔑ろにして法的性別の概念をもてあそび、性自認至上主義により、安易に「女性」「男性」の定義を変更しようとしているという外はない。


 このような性別を安易に扱う考え方をとれば、性自認至上主義が先行した国々と同様の混乱を導くばかりである。多く誤解されているが、「ジェンダーアイデンティティ」が食い違うとするトランスジェンダーのうち、性同一性障害の診断がある人は15.8%にとどまり(令和元年度厚生労働省委託事業職場におけるダイバーシティ推進事業報告書105ページ)、84.2%はこれに入らない。

 そしてその診断も15分で済ませてしまうクリニックが存在する実態がある。日本精神神経学会性同一性障害に関する委員会のガイドラインに基づいた診断を厳格に実施することこそが重要であるのに厚生労働省の努力は見られず、GID(性同一性障害)学会は2021年5月、特例法の手術要件の撤廃を求めるあり様であって、概念の変更問題もあり特例法が性別取り扱いの変更に直結するにもかかわらずその責任を全うしようとしない。

 4号の生殖腺機能喪失要件そして5号の外観要件が外れれば、文字どおり「男性器ある女性」が続々と登場する、その先には「性同一性障害」ではなく、ジェンダーアイデンティティ(性同一性・性自認)に基づく法的性別の変更が認められる制度があり、やがては決定文中一人の裁判官が何度も言及したドイツにおける性自認至上主義のごとく、裁判所の関与さえないままに法的性別が変更できるとする方向性となる。先に述べた通り性犯罪目的の男や、女性を侮蔑・差別したくその専用スペースを侵害することによって喜びを得ようとする一部の男は、法的性別を女性に変更するよう努力するだろう。それで良いのであろうか。


 法律を違憲とすることは法の形成過程の一つであって、今回の最高裁決定は、まさに性自認至上主義を大きく伸展させる法律の登場である。先行する国々では混乱が多々あるのに、日本に周回遅れでこれに従えとするものであって、まったく異常である。

 ただし、最高裁の多数意見は今回、4号生殖腺喪失要件を違憲だとして原決定を破棄し、5号要件について事実関係の確認と憲法判断をさせるべく広島高裁に差し戻した。それは、3人の裁判官が5号外観要件をも違憲として自判により性別変更を認めるという姿勢と異なり、高裁に預ける手法による先延ばしであり責任の回避でもある。

 最高裁の多数意見が最終判断をしないという逃げの姿勢に至ったのは、私ども連絡会をはじめとする多くの国民が、最高裁に向けた様々な運動を繰り広げてきた成果ではあろう。私どもが、性自認至上主義の問題点につき報道が少なく、これに疑義を述べると「差別扇動だ」などと様々な方法で言論を抑圧されながらも、これに耐えて運動してきた意義があったのではないか。

 今、国民こそがもの言う機会を得た。政府やメディアが十分な調査と正確な報告を国民に提供し、国民的な議論のうえで国会がよりよい法律を作る、また最高裁を変える機会を得た。


 女性が、未だ経済的、社会的に様々な不利益を被るのは、性別(SEX)に拠るものであり、決して外見や行動の側面に基づくものではない。体格、身長、筋肉で男性より劣り、月経・妊娠・出産があることから社会構造的に様々な不利な状況にある。だからこそ、女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(CEDAW)第1条は「on the basis of sex」と明記し、女性の権利の保障を要請している。その趣旨から、同条約の第5条aは「両性いずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため,男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること。」を、締約国がすべき措置としている。今年のG7サミットのコミュニケにいう「有害なジェンダー規範」の打破もこれに類似する。

 しかるに、性自認至上主義は「トランス女性は女性だ」という思想であり、性別(SEX)を基本とした男女の定義を意図的に軽視している。これは明らかな誤りであるが、仮に性自認至上主義を採るのであれば、歴史的に獲得されてきた生得的な女性の安心安全という権利法益などが後退しないように、しっかりとした社会的合意を得るべきであるのに、それを議論しようともせず不公正きわまりない。


10 以上のことから今、私たちは次のとおり提案する。

 第1に、政府各省庁は、以下のような調査を行うべきである。

・先行した国々のここ数年間の状況と動向

・不特定多数が使用するトイレ、共同浴場などにおけるトラブルの有無、対応状況とその変化

・いわゆる女性スぺースにおける国内の刑事事件や女性装がからむ刑事事件の調査

・性同一性障害の診断の実態と信頼性に関する調査

・法的性別を変更した人のその後の調査

・性別適合手術をしたが法的性別を変更していない人の調査

・性別適合手術はしたくないが法的性別を変更したいとする人がどの程度いるかの調査

・性別移行を断念または中止した人の調査

・その他、シェルター、代用監獄、刑務所、病院、自衛隊などでのトラブルや運用実態の調査


 第2に、メディアは、性同一性障害とトランスジェンダーを混同して議論することは厳に慎み、上記の情報や、当連絡会を含め多くの国民のさまざまな見解、情報を報道し、また国民が自由に判断できるように意見の異なる者の間での公開討論の機会など用意すべきである。

 第3に、国民はそれらに基づいて、すべての人に人権があることを念頭に置いて、先入観にとらわれることなく自らの意見形成に努めるべきである。そのためには、差別者とは話さないなどと言って論者が議論を拒否する姿勢のまやかしを知り、言論の自由な市場が確保されなければならない。

 第4に、各政党は、当連絡会を含め多くの国民のさまざまな意見を聴取し、党内でも自由に議論して方針を定めるべきである。

 第5に、それら議論にあっては、女性は、性別(SEX)に拠ってこそ未だ経済的・社会的に様々な不利益を被っていることを前提として認識すべきである。それにもかかわらず、法的性別が生得的性別とよりかけ離れたものとしてよいものか、そうなれば、また女性スぺースや、男女の実質的平等をめざす様々な措置、統計、スポーツなどの場面で混乱していくことを認識すべきである。

 第6に、国会は、4号生殖腺機能喪失要件はもちろん、5号外観要件(特に男性の陰茎につき)は尚更に決して急ぎ削除などを検討すべきではなく、上記に基づいて慎重に対処すべきである。5号要件は決して違憲判断が示されたものではない。

 国会はまた、生得的な性別に基づく区別が差別にあたらないことを明確にする法律を成立させるべきである。特に、性犯罪は圧倒的に生得的男性の女性、子どもに対するものなのであるから、避難場所である「女性スぺースを守るための法律」を早急に成立させるべきである。

 第7に、この裁判を差し戻された広島高裁は、早期に本件の判断をすべきではなく、様々な調査結果と国民的な議論の行方をよく見極めるべきである。国から参加申出があったときは直ちに認めるべきである。

 第8に、そのためにも国は、これからでも法務大臣権限法と家事事件手続法に基づきこの裁判に利害関係人として参加すべきであり、仮に法律上どうにも参加できないとするならば法の欠陥であるから直ちに改正をして参加すべきである。

 第9に、国民は、次の衆議院議員選挙における国民審査において、この15人の裁判官につき4号生殖腺機能喪失要件につき違憲とする大きく間違った判断をした以上は、罷免させるべきである。

 第10に、内閣は、最高裁裁判官に定年等で欠員が出たならば、このような「性自認至上主義」に嵌っていない方をこそ指名すべきである。


 日本の主権者は我々国民である。それにもかかわらず国民的な議論がなされないままに、申立人側の主張立証のみでこのような違憲判断が下されたことは、極めて異常である。いかなる法律も、すべての国民の権利法益を守るために作られ運用されなければならない。国民間の権利法益が衝突するときは十分な調査と議論のうえで調整が図られなければならない。最高裁の暴走は許されない。

 以上をもって、声明とする。