性同一性障害ってなに?

私たちの団体「性同一性障害特例法を守る会」は、この「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下「特例法」)が保護する対象である「性同一性障害」の当事者による団体です。私たちが自分たちのアイデンティティとして掲げる「性同一性障害」とは何なのか、ということについて、当事者視点でこの文書では解説していきます。

性同一性障害とは

この法律において、「性同一性障害者」とは、生物的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意志を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の意志の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。

性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律 第二条

と特例法では定義しています。「心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信」がいわゆる「性同一性」「ジェンダー・アイデンティティ」と呼ばれるものなのですが、たとえばこれが「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」(以下「LGBT理解増進法」)の議論の中で、立憲民主党などの野党案で言われていた「性自認」というものと、あるいは性同一性障害者が「トランスジェンダー」というものと、どのような関係にあるのか、あるいは詳しい方だと「性同一性障害は新しい国際疾病分類ICD-11では『性別不合』に代わった」という方もいるでしょう。
また、いわゆる「女装趣味」というものとどう違うのか、ニューハーフやドラァグクイーン、「男の娘」とどう違うのか、そんな疑問を持たれる方も多いと思われます。このような疑問に、丁寧に答えていきましょう。

特例法で定めている「性同一性障害当事者」の要件は、

  • 心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信
  • 自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意志
  • それを証明する2名以上の専門医の診断

ということになります。ですので、これは医学的な問題であり、客観的に診断可能であり、また医療の対象となるべき「病気」であるということができます。言いかえると「身体的に他の性別に適合させようとする意志」は、医療によって、具体的には性ホルモン剤を使ったホルモン療法によって希望する側の性別に近い身体を、また外科的な手術によって性器を外形上希望する性別の側に近似したものに作り変えることによって、「社会的に他の性別に適合させよう」とする者が、性同一性障害者なのです。

このことをごく単純に言いかえると

手術・ホルモン療法といった医療を求める

という事実が、性同一性障害の根本的な特性になります。私たちはこの「医療を求める」ということを、自分たちの要求の焦点とし、また自分たちをこれによって定義する人々です。そしてそれを通じて、普通に社会に適応していこうとする人々です。

ですから、手術が終わって、今までと反対側の性別で、過去を知られずに生活することを、よく「埋没する」と言いますが、私たちの目的はまさに「埋没の生活」です。「埋没する」ことによって「性同一性障害が治った!」と考える当事者も多く存在しますし、そう考えることを批判できる人がいるでしょうか?私たちは社会運動でも思想運動でも、「新しい生き方」を追求する人々でもありません。
私たちは性別適合手術のあと、ただ単に移行後の性別で静かに過ごすことだけを求めているのです。

性同一性障害者は「トランスジェンダー」か

では「トランスジェンダー」とは何でしょうか?
この「トランスジェンダー」には歴史的経緯から、2つの違った意味があります。

  • (広義)性別移行者全体を大きく指ししめすカテゴリー
  • (狭義)医療を求めない性別移行者が自らのアイデンティティとして選んだ自称

よく「LGBT運動」と称される性的少数者の運動がありますが、この「T」が「トランスジェンダー」の略に相当します。「LGBT運動」として、レズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシュアル(B)と並立させる場合には、とりあえず、「広義のトランスジェンダー」が「T」になる、と説明されることになります。でしたら、私たち性同一性障害当事者も、この「T」の一部になるわけです。私たちも「性別移行者」であることには違いないのですから。

しかし、「LGBT運動」の中では、「医療を求めない性別移行者」が「トランスジェンダー」全体の利益を代表するかのように振る舞っています。私たち「医療を求める性別移行者=性同一性障害当事者」の主張や利害は、LGBT運動の中で無視され続けてきたのです。広義と狭義の「トランスジェンダー」を、「医療を求めない性別移行者」たちが手前勝手に混同して私物化しているのです。それどころか「くたばれGID!」という表現を、「トランスジェンダー」たちから私たちは受けてきたくらいです。

私たちは以前からこれに強く反発してきました。そのために、多くの性同一性障害当事者は以前からLGBT運動を冷ややかに捉え、積極的にこれに参加する性同一性障害当事者は少数にとどまっています。私たちの問題の中心部分は特例法によって解決されており、それらは「医療を求めない性別移行者」たちの利害とは無関係だったり、あるいは相反するものだと捉えられているのです。

ですから、私たちは「自分たちの要求が無視されるばかりなのに、なぜLGBT運動に参加しなければいけないのか?」という疑問と不満をずっと抱いてきました。LGBT理解増進法の制定をめぐる議論の中で、野党案を推す推進派が、トランスジェンダーのイメージとして私たち性同一性障害当事者を前面に押し出して、「トランスジェンダー=性同一性障害」というイメージを振りまいていることに、ついに私たちは怒りの声を上げたのです。

私たちの利害は「トランスジェンダーの利害」とは別だ

と。ですから、私たちはLGBT理解増進法の制定をめぐる議論を通じて、

性同一性障害者は「トランスジェンダー」ではない

という声を上げるようになりました。
私たちは「性同一性障害」という医学的な診断名を、私たちの「アイデンティティ」として掲げます。もはや私たちは「トランスジェンダー」と呼ばれることを拒みます。なぜなら、私たちの利害は「トランスジェンダー」とは共通しない独自のものなのですから。私たちが「トランスジェンダー」と呼ばれることを甘受するのならば、私たちの固有の利害は無視されるのです。
私たちはこれを許すわけにはいきません。

「トランスジェンダー」とは一体何なのか?

「トランスジェンダー・アンブレラ」と呼ばれる図を2年ほど前からよく目にするようになりました。

これらの図が目的とするのは「トランスジェンダー」という言葉が包括的なカテゴリーであり、内部にはいろいろな雑多な種類の人々を含むのを示すことです。言いかけると「トランスジェンダー」は大きな寄り合い所帯であり、その中には「『男女』という大きなカテゴリーから抜け落ちる人たち」を細かいことを抜きにして一緒にしたものだ、ということです。
この中には、私たち性同一性障害当事者も含まれはします。先ほどでいう「広義のトランスジェンダー」の話なのですから。しかし、私たちはもう「トランスジェンダー」と一緒にされることは嫌だと声を上げましたし、LGBT運動の中で「トランスジェンダー」とされる人たちの間では、実際のところ私たちは少数派でもあります。
「トランスジェンダー」の大多数は、性同一性障害当事者ではないのです。

具体的に「トランスジェンダー」にはどのような人たちが含まれるのでしょうか。

  • 女装家/男装家(cross dresser, transvestite)
     趣味として異性装を楽しむ人々です。いわゆる「性自認」に揺らぎなどはまったくありませんが、性的な嗜好やらライフスタイル・政治的主張の為に「異性」装をする人々です。サブカルとしての「男の娘」の多くは、この類型に入ることでしょうね。「女装家」の類型として、また別に「オートガイネフィリア(自己女性化愛好症)」と呼ばれるものがありますが、これについてはまた別項目を立てて解説します。
  • ドラァグクイーン/ドラァグキング
     これはゲイの娯楽としての「女装ショー」から発祥した、華美に装って女性性を露悪的に強調して、ジェンダーの相対化を狙って娯楽化したショーとそれを楽しむ人々です。プライドパレードなどにも「出たがる」人たちですね。ですので、ドラァグクイーンは男性同性愛者のサブカルチャーにかかわる現象です。
  • Xジェンダーとノンバイナリー
     「男でも女でもない」と自分を規定する「性自認」の人のこと。単に「性自認」だけで決まる話ですから、典型的な男性・女性の「性表現」をしていたとしても、「性自認が、男でも女でもない」と主張すればこれに該当することになります。あるいは積極的に「中性・無性・両性」と主張することもあれば、男女の間をゆらゆらと揺れ動く、表現する方もいるようです。
     ですから、これは「医学的な概念」と呼ぶよりも、その人の「生き方」、自ら選択したアイデンティティの問題であるとするのが適切のように感じられます。もちろん、カウンセリングなどを別にすれば、医療的なサービスが必要な人々ではありません。
  • 性分化疾患と「第三の性」「インターセックス」
     遺伝的・発生的なイレギュラーにより、定型的な性器の発達から外れた子供たちというのも一定数存在します。これは実に様々な原因から起きる可能性があり、それぞれに例えば「アンドロゲン不応症」や「先天性副腎皮質過形成」などの医学的な分類がなされるものですが、これらを総称して「性分化疾患(DSDs)」と呼びます。
     しかし、DSDsの当事者たちは、自分たちがそれぞれの身体的な病気を抱えているとは感じますが、包括的に性的少数者としてのアイデンティティを持ったり、それを以て「男女のカテゴリー」から外れた存在、いわゆる「性別二元論」を脅かす存在だとは全く考えていない方が大多数なのですね。それどころか、自分たちが「男女」から除外されることを恐れる方がかなりの数を占めます。ですから、積極的にLGBT運動に関わろうとはしないのが一般的です。もちろん「両性具有」といった神話的なイメージとも無関係です。
     男性同性愛者に対して「ゲイ」というアイデンティティを与えることで、いわゆるLGBT運動が始まったわけですが、この流れの中で、DSDs に「インターセックス」という「アイデンティティ」を与えて、LGBT運動に包摂しようとする動きがありました。しかし、上記のように当事者はこの「インターセックス」というアイデンティティに反発することがほとんどで、「インターセックス」という性的マイノリティの運動は成立しませんでした。また自分たちが、男女とは違う「第三の性別」だ、とする考え方にも、馴染まない人がほとんどです。
     ですのでこの「トランスジェンダー・アンブレラ」に性分化疾患当事者が「包摂」されるのは、当事者の「意に反して」いることにご注意ください。
  • 男っぽい女/女っぽい男
     これらも「性的規範から外れた存在」として、周囲から排斥されるとすれば、この「トランスジェンダー・アンブレラ」に含まれるとされます。話の趣旨は分かりますが、ここまで「傘」を広げてしまえば、ただでさえ雑多な概念でしかない「トランスジェンダー」が意味不明なものになってしまう…とは思われませんか?
  • 狭義のトランスジェンダー
     前に述べましたように、「医療を求めない性別移行者」のことです。

もちろん、この「トランスジェンダー・アンブレラ」は政治的な意図のもとに作られた説明図です。多くの「素性が異なる」概念を、「性別二元論から逸脱する存在」で「同性愛・両性愛といった既存の性的指向性とは別な軸のもの」を、とりあえずまとめてみた、というものに過ぎません。「こんなにたくさん、トランスジェンダーがいるぞ!」と誇示するために、この図が作られた、と見るのが正しいでしょう。

しかし、上記でその構成要素を検討して見れば、これらが私たち性同一性障害当事者と、どのような共通性があるのでしょうか?
それぞれがまったく別個の概念を示していますから、共通する「利害」などまったくありえません。性分化疾患当事者にとっても、あるいは「男っぽい女・女っぽい男」であっても、「トランスジェンダー」扱いされることは、「連帯の証」ではなくて、端的に「迷惑な話」でしかないのです。
この「トランスジェンダー・アンブレラ」の中核に、私たち「性同一性障害(トランスセクシュアル)」を持ってくることで、この説明図の正当性・妥当性を主張しようという企図があるわけですが、私たち性同一性障害当事者はこのような企図そのものに反対します。
勝手な思惑で私たちを利用しないでください。

「狭義のトランスジェンダー」と、オートガイネフィリア

さて、話を「異性装」する人々の話題に戻しましょう。 

もちろん私たち性同一性障害当事者が「異性装」するのは、私たちが真摯に性別を変えたい、と願う心からです。生得的な性別では「生きていけない」と思い、移行した性別ならば「なんとか、やっていける」ということを確信するために「異性装」を試みるわけです。

そこに性的なニュアンスを含むわけではありません。「理想の女」を実現するために女装するわけではありませんから、自分の素材相応、年齢相応の「普通の女性」像を目指して、「異性装」を試みることになります。自分が女性だったら、当然こうあるような姿に「戻る」という表現をされる方も多いですね。

だったら、いわゆる「セーラー服オジサン」は性同一性障害なのでしょうか?
あれも異性装には違いありません。だから性別越境者、「トランスジェンダー」なのかもしれません。しかし、今までの説明からして「セーラー服オジサン」の女装には、性同一性障害とは別な動機があるわけです。
昔は「フェティシズム(女性服や下着への執着)から女装する」という言い方をしていましたが、最近では「オートガイネフィリア(自己女性化愛好症:よくAG, AGPと略されます)」という概念が登場しました。オートガイネフィリアは、

男性が、自身を女性だと想像すること、または、女装行為自体、女装中に「女性」として男性と肉体関係を持つこと、そして、これらのような各種「女性化」によって性的興奮する性的嗜好。

と簡単に定義できることになります(女性の場合には「オートアンドロフィリア」になりますが…)。つまり「性的嗜好」としての「女装」を言い表した言葉になります。女装した自分に恋し、またその「女性の自分」が男性と性的関係を持つことに、性的興奮を覚える性癖ですね。言いかえると、男性としての性欲がベースになって、女装をする、という「男性ならでは」の性行動の一つになるわけです。

ですからオートガイネフィリアの方は、「自分の性欲を満たすため」に女装します。自分が性的に「エロく」なるために女装するわけですから、「似合わない」とか「ケバい若作り」とか言われても平気です。同性代の女性の日常的な服装とはかけ離れたエロチックな服装がしたいのです。その結果、とくに女性から見た場合に、「性同一性障害の女装と、そうでない女装は見分けることができる」とも言われます。

このオートガイネフィリアの根本にあるのは男性の性欲ですから、これを性同一性障害と間違えて、あるいは女装の完成度を高める目的で、女性ホルモンを使いだしたらどうでしょうか。
実は「女装が楽しくなくなる」のです。男性としての性的欲求は、女性ホルモンによって確実に減退しますからね。
さらに、性器の手術などしてしまったら、「いったい何のために、手術を受けたのか?」と心底後悔することにもなるのです。手術後に今までなかった逆の「身体違和」にさいなまれることになるわけですから。ですから、こういうオートガイネフィリアの人は、性同一性障害の医療を受けるべきではありませんし、受けたら本当に後悔することしかないのです。

実のところ「トランスジェンダー」が「医療を求めない性別移行者」と自己定義するこのことこそ、類型の上で性同一性障害とは無関係な、オートガイネフィリアのニーズに即して「医療を求めない」と主張している、と言えませんか? オートガイネフィリアだからこそ、「手術がしたくない」のです。

オートガイネフィリアは性同一性障害の「程度が浅い」ものでも「軽症」でもありません。そもそもの原因も違いますから、その対処方法も違います。
まさしく「手術がしたいか、したくないか」で、性同一性障害とオートガイネフィリアを見分け、区分することができる、というべきではありませんか。

また、オートガイネフィリアの動因が「男性の性欲」にある、ということから、「女性を性的対象とする」のが普通です。性同一性障害で紛れがない方でも「性対象は女性」という方もいますが、昔は「同性が好き:異性が好き:性的関心がない=1:1:1」というのがよく言われていました。しかし、現在の「MtF トランスジェンダー」で「女性が好き」であることを公言する人たちが多すぎることを見ると、「トランスジェンダー」の大部分が今やオートガイネフィリアによって占められている、としか思えません。

オートガイネフィリアの人は自分を「トランスレズビアン」と称しますが、実のところ、男性としての性欲の屈折した発露から、女装して女性との性的関係を持ちたがるのです。
これよって引き起こされた数々のトラブルから、レズビアンは強く反発しています。「トランスレズビアンはレズビアンではない」と。しかしオートガイネフィリアの「トランスレズビアン」はこれを「トランス差別だ!」と称して、強引にレズビアンサークルに入ってこようとするのです。

このようなオートガイネフィリアと性同一性障害とを、区別する社会的メリットは十二分にあります。MtF GID は「女性」として扱ったとしても、女性に対しての実質的な脅威は低いと考えられますが、オートガイネフィリアを「女性」として「女性スペース」に招き入れるようなことをしたら、男性としての性欲を発揮することになり、女性たちの性的安全は失われます。これが「男性器のある女性」を認めるべきではない、大きな理由になりますし、また性同一性障害当事者が女性の側に立つべき大きな根拠でもあります。

女性の思春期の悩みと「トランスジェンダー」

オートガイネフィリアは男性特有の病理と言っても過言ではないでしょう。しかし、生得的女性には「トランスジェンダーになる」別なルートがあります。

女性の思春期というのは危険な時期です。身体的な成熟による体の変化に戸惑い、「女性らしい体つきになること」や生理に対する嫌悪感を抱くのもごく普通の体験です。またそれまで「対等」という気持ちでいられた男子たちとの体力的な差が目立つようにもなりますし、男子たちから「性的な目線」を寄せられるようになったり、しつこくからかわれるなどして、それがトラウマになることもあるでしょう。男性からの性被害がリアルな脅威として感じられるようにもなります。「なんて女って面倒なものなのか」と、自分の「女性」という性別が嫌になるのも仕方のないことです。
さらには、社会的にも「女性としての性役割(ジェンダーロール)」を押し付けられて、男性に対する補助的な役割を強制される、女性だからで差別的な扱いを周囲から受ける、「女だから、自分の人生を主体的に生きられない」と感じる、などなど、社会的な女性差別からも、「女って損」という感情を抱くのも仕方のないことです。

こんな思春期の悩みを抱えた女子が「女になるのは嫌だ」と感じるのは少しも不思議なことではありません。しかし、「自分が女になりたくないのは、自分の心がオトコだからだ」というアイデアに飛びついてしまう方も、いるわけです。同性愛傾向があればなおさらでしょう。

そんな方に「男になったら、うまくいく」と具体的な誘導を与える人が、周囲にいたら?
「自分はホントは男だから、男になります!」と宣言する方の中には、本当の性同一性障害の方も含まれるでしょう。しかし、周囲の誘導によって「女ってイヤだし損だから」で「男になる」、そしてそれによって、周囲にチヤホヤされるということを通じて、未成年者なのにホルモンや思春期ブロッカーなどの医療を受けるために、ジェンダークリニックを訪れる方もおられるわけです。

実際、私が最初にジェンダークリニックを訪れたのは、特例法が成立して間もない頃でした。「金八先生」で虎井まさ衛さんをモデルにして上戸彩さんが演じたイメージが強かったのでしょうが、思春期の女子が大量に詰めかけていました。それまで、MtF と FtM では、2:1 で MtF が多い、と海外の情報を聞かされていましたから、この状況は不思議だったのです。

それから20年、このジェンダークリニックに詰めかけた女子たちはどうしているのでしょうか。もちろん、男性としてしっかり社会に適応されている方も大勢います。しかし、周囲に乗せられて「自分は性同一性障害だ」と思い込んだ方たちのうち、不可逆な医学的措置を受けてしまった方などは、あとで「いや違った!」と思ったとしても、重大な身体的影響が出てしまっています。男性ホルモンの影響で声帯が伸びてしまい、声も低くなり、脱胸したりすれば、性器手術がなくても元には戻りません。「治療」前の「女性」に戻ることができるわけでもないのです。身長が低いことも多く、骨格の華奢さも改善するというわけでもありません。筋トレを頑張るしかありません。

また社会的にも男性との「対等な立場」にしっかり立つためには、さまざまな社会的スキルをしっかりと身につける必要もあります。性的な側面も含めた男性のカルチャーに完全に馴染み切ることも難しいでしょうから、それをハンデとしないような仕事上のスキルなども別途磨く必要もあります。男性の間での「能力差別」というのはシビアなものがありますからね。

その結果、本人は「男きどり」であったとしても、男社会にはまったく受け入れられることもなくて、中途半端な状況で人生を過ごしていかなければいけない方が、とくにLGBT運動の中には散見します。早まって受けた医学的措置が大きな身体的な「傷」を残した場合には、こういう方は医学的措置に反対する立場を取ることになります。ですからこれも「医療を否定するトランスジェンダー」の一つの類型となってくるのです。もちろんそういう方の事情を考えると本当にお気の毒なのですが、だからと言って性同一性障害に対する正当な医療サービスを否定するのは、本末転倒です。

そんな「若気の至り」を取り返しのつかないものにしないように、とくに未成年者へは、医療の側の自制と、診断の厳格化、そしてカウンセラーなどによる誤った誘導がなされないように、しっかりと実情を広めていくことが重要なのだと思います。

結論:性同一性障害者はトランスジェンダーではない

以上のように性同一性障害当事者は、「広義のトランスジェンダー・カテゴリー」による包摂にも、運動論の上での包摂にも、正面から反対します。
また同時に、「狭義のトランスジェンダー」の大部分を占めるオートガイネフィリアの人々とも、不可逆なジェンダー医療に傷つけられた方とも、まったく別な病理を備えた存在として、利害が共通しないことを主張します。

私たちはどちらかいえば、自分の問題に医学的な根拠が存在することを感じていることが多いのです。「自分はなぜこんなに女/男っぽいか」「自分はなぜ周囲の男性/女性たちとは『身体的に違う』のか」と、身体レベルに起因する周囲との齟齬に苦しんできた経験が多いのです。私たちは「異性になりたい」というよりも、「自分がどっちであるべきかわからない」ということの方に苦しんできています。私たちの問題は「病理」の問題であり、けして「トランスジェンダー」が解消しようとしている「社会的な問題」ではないのです。

私たちも「社会的な問題」を無視するわけではありません。固定的な「ジェンダーロール(性役割)」とその圧力はない方がいいですし、女性への差別にも明確に反対します。また服装は本質的には自由だと考えますから、異性装の方に対する差別はなくすべきですし、これによって私たちの移行期が楽になることも期待します。「男は男らしく、女は女らしく」というジェンダー規範も、自身がそれを大事にするのは自由ですが、他人に対して押し付けるのはよくないことです。ジェンダー規範の社会的強制は解消していくようにしなければなりません。

そういう場面では、私たちもLGBT運動を否定するわけではないのです。ただただ私たちの固有の利害が、LGBT運動の中で無視され続けてきたことを怒り、その独善的な姿勢に抗議するものである、ということだけなのです。

これは逆説かもしれませんが、ジェンダー規範の圧力が弱まれば弱まるほど、ジェンダー規範から自由になることを目的とする「トランスジェンダー」は存在の余地がなくなり、私たち性同一性障害当事者の独自の立場が鮮明に表れてくるものだと考えています。

私たちと「トランスジェンダー」を、区別していただけるよう、私たちは切にお願いいたします。

補足:性同一性障害と性別不合

国際疾病分類ICD-11 によって、それまでの「性同一性障害」が「性別不合」という新しい概念に再編され、また「精神疾患」から外れたことをもって、「性同一性障害特例法」を改正すべしという意見があります。この「改正」を通じて、手術要件の廃止すべしとの主張もありますが、私たちはこの改正は不要であり、性急な見直しは避けるべきであると主張します。

では、医学的な概念として、具体的に何がどう変わった、ということでしょうか?
「性別不合」として、「精神疾患」から「性の健康に関わる状態」に移動したわけですが、「疾病分類」から削除されたわけではありません。「性の健康に関わる状態」のカテゴリーには、たとえば「勃起障害」とか「性交痛」などが含まれており、これらは精神的な障害というだけではなく、器質的な原因から来る場合も含めて取り扱われているわけです。

私たちの多くは、性同一性障害が「精神疾患」というよりも、何らかの器質的・生理的原因がある、と感じていたりもします。また当事者の悩みはさりながら、自分を「病気」というよりも、単に解決すべき「困った状態」と捉える傾向もあります。しかし私たちの特質は、その解決に医療のサポートが不可欠なことです。

実際、この国際疾病分類でも、「性別不合」を「医療の対象ではない」としているわけではありません。同性愛はもはや「医療の対象」ではありませんから、同性愛と同様に「脱病理化」されたとするのは、趣旨を曲解したものでしかありません。実際には「精神疾患とすることで、当事者を逆に医療から遠ざけていた」という理由が付されていますから、実質的には、「病気とすることによる社会の偏見はなくしたいが、医療が届かなくなるのは困る」というバランス判断からこうなったという観測が当をえたものでしょう。
「性の健康に関わる状態」は、医療サービスを正当に受けるための概念なのです。

さらに、「性同一性障害」が「性別不合」に代わった、という内容も、実のところ、少しだけ概念が広がった、という程度のものです。性同一性障害では、

異性の一員として暮らし,受け入れられたいという願望であり,通常,自分の解剖学上の性について不快感や不適当であるという意識,およびホルモン療法や外科的治療を受けて,自分の身体を自分の好む性と可能な限り一致させようとする願望を伴っている

と説明されました。これが「男女」という性別二元論を前提とした議論だ、というのが概念の変更の中心的な部分です。この
「性別不合」では、

体験されたジェンダーと指定された性との間の顕著で持続的な不一致

と、性別二元論に基づかない、それゆえ曖昧な説明になっています。男か女、ではなくて、たとえば「中性」に移行するケースであっても、「性別不合」という概念ではカバーできるということにはなりますが、一般的すぎて説明になっていない、というのも正直感じます。何をどうしたいのか具体的なイメージを排除してしまっていますからね。

ですので、日本精神神経学会では「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第4版改)」が今でも有効であり、これに従って「性同一性障害」の診断が下りつづけています。そういう意味では、今でも「性同一性障害」がなくなったわけではありませんし、特例法が求める診断もあくまで「性同一性障害」でありつづけているわけです。

このような状況を受けて、当事者の間は今でも「私は性同一性障害だ」という方は多くても、「私は性別不合を抱えている」という方は耳にしません。「性別不合」は当事者のアイデンティティにはなり難いのです。名称変更が「精神疾患のスティグマを避けるため」であったのですが、日本の当事者は「性同一性障害」を「精神病のスティグマ」とはほとんど考えてもいないのです。逆に「性同一性障害は精神疾患だから嫌だ」と主張する方が、精神疾患に悩む人たちへの配慮を大幅に欠いた主張だ、と捉えられることのほうが今の日本ではずっと多いことでしょう。

そうしてみると、「性別不合」に変えたメリットは当事者にもほとんど感じられません。おそらく「性別不合」は今後も定着することはないように思われます。
私たちは使い慣れた「性同一性障害」を引き続き使いつづけていきます。