当事者の手記(その2) 美山みどり

前回は大学生と就職してすぐくらいまでの話でした。
性別移行したい、とは思いながらも、とくに関りがない時代の話をまずさせてもらいました。

まだ昭和です。性同一医性障害、という言葉もまだありません。特例法ができるまでさらに20年近くかかります。断片的な風俗情報などで「性別を変える人もいる」というが伝わってはきますが、ほぼ「夜のお仕事」の範疇でしか話題にはなりません。

私は、といえば、男で就職はしてますが、本当に困ってました。

服など身につけるもので、困るんです。

背広の量販店に行きます。そうすると、2・3着の中からしか選べなくて、ほぼ選択の余地もありません。それでもズボンのウェストを詰めるのが必要で、追加料金を取られます。肩幅がないから胴回りがブカブカで、その分袖丈が余ることになります。本当にチンチクリンとしかいいようのない着こなししかできません。

オフの服も「どうせ、買いに行っても何もない」と諦めてましたから、母親が「小さいサイズ」があるデパートで買って着たものをそのまま来ていました。自分で買いに行って「何もない…」と困惑するよりマシですから。

ネクタイもちゃんと結べません。普通に結ぶと剣先がズボンの位置までハミ出てしまい、いかにも格好悪い。だから、かなり太い部分で結んで、大剣先を普通の位置にもってきて、小剣先が大量に余るので、それをズボンにたくし込む。ネクタイの結び目がヘンに大きくてバランスがおかしいですが、我慢します。

靴もカタログをみて靴屋さんに注文します。プログラマをしていましたが、男持ちの腕時計はごつくて大きく重いです。手首からはみ出すこともあります。何かの記事で「女ものをわざと使うプログラマもいる」と聞いて、「プログラマ時計!」と称して女ものを使っていました。

身長159cm、20代の体重は48kgあたり。これが私。
男性たちとは比べ物にならないカラダ。見下ろされるし、子供扱いされる。体力も比較にならない。「男の会話」には入っていきづらいし、いざ腕力になったときには対抗する手段がない….

いや、仕事ではどこでも頼りにされて重宝されていたんですよ。なので、孤立していたわけではないのですが、プライベートなお付き合いは本当に無理でした。男性たちって何であんなに飲むんだろう、食べるんだろう….体力凄いなあ、と疎外される気持ちばっかり。スポーツやらギャンブルやら、そんな話題にもついていけない。

大学時代以上に実社会では、私は「男女の境目に落ち込んだ…」というのが実感でした。これは本当に困ります。

女性たちとは仲良くなるのですが、仲良くなるとやはり女性たちが私のことを「オトコではない」と感じているのが伝わってきます。趣味関連で仲良くなった方などは、平気で私に「女になったらいいのに」と言ってきます。さすがに大人ですから「え~そう?スカートはいてみようかな?」とか、図太く冗談めかして切り返すこともできるようにはなってきます。

でも「まずい!」というのはヒシヒシと感じます。「どう生きたらいいのか?」と困惑するばかりです。女性に対する性欲もないから、恋愛・結婚話もどこからも出てきません。結婚して家庭を持つ、とか全然イメージが湧きませんが、そもそも「相手にされていない」からほっとします…いやそれマズいでしょう?

転機はやはり女装クラブでした。昭和の末年でしたが、そういうのしかないんですよ。「エリザベス」に代表される「サロン女装」というものですね。たまたま東京に遊びに行った際に、当時は神田にあったエリザベスで初めてやってみました。「自分がどっちか、自分でもよくわからないから、試してみよう」という気持ちです。

そうしてみると、ホントに「女性」だったんですね。びっくり。分厚いメークをされましたから「全然、似てね~」というのが正直なところでしたが、体格がまるっきり女性でした。女装クラブの衣装はホントにブカブカで困りましたが、女性の服装をしたら、私がコンプレックスを抱いていた自分のカラダが、「全然、おかしくないじゃん?」と肯定することができるんですね。本当にショックでした。

というわけで、逆に私もふっきれて、それまでは「レディスの服を買うのははどうも…」と思っていましたが、男用にレディスを使っても、いいじゃない?と開き直りました。

サイズないんだもん、仕方ないじゃん?

これで通せばいいだけです。女性のボリュームゾーンに入る体型ですから、マニッシュなデザインの服なんていくらでもあります。逆に「太ったら、女っぽい服しかない」とも思いますから、「ボリュームゾーン死守!」とまで思ってました。男だと着る服に困るのに、レディスならより取り見取り….

私にとって「女っぽいことを受け入れる」というのが、そのまま「人並みになる」ということでもあったのです。社会的には困ったことでもありますが、現実的な解決策がこれしかないのです。
自分の性別の「中途半端」さに本当に困惑していたわけですが、「男になる」よりも「女になる」ほうがリアルな解決策に浮上してきたわけです。

そんなこともあって、エリザベスには多少通ったわけですが、馴染んでいたか?というと疑問でもありました。いわゆる「女装趣味」の人たちの「自分勝手な女装」には違和感が強かったのですね。いや「オアソビ」ですから、文句をつけるのは筋違いなのですが、「この人たち、女になりたいわけではないんだ…」というのは率直に感じます。写真の上ではテクニックを駆使して「女に見える」ようにしていますが、リアルのカラダの使い方・しゃべり方や雰囲気はまるで男。男女の境界をゆらゆらと漂うのを楽しんでいるのであって、「男をしているのが困る」という切実さを感じる人はほとんどいません。エリザベスには「競技女装」という言葉があったくらいで、本当に「趣味」として「男としてどこまで女に近づくか?」を競っていたのを、なかば呆れて見ていました。

当時女装クラブに転がっていた本といえば、渡辺恒夫の「脱男性の時代」とか、蔦森樹の「男でもなく女でもなく」といったあたり。読みはしましたがあまり感銘もせず。いやだから「男をやめたい」のではなくて、「男になれないのが困る」んだって! この2つの本で取り上げられているのは、今でいえば「オートガイネフィリア」の人たちであり、女装クラブでも私みたいな人はごく少数のようなのですね。「男でもなく女でもなく」なりたいのではなくて、「男でも女でもない」のがツラいから、何とかしたいんだけども…これが理解してもらえないのです。

そういう意味では黒柳俊恭の「彷徨えるジェンダー」の方がずっと役に立つ本でした。趣味的なくらいに難解な本でしたが、ここで紹介された「変性症(transsexualism)」「性別不快症候群(gender dysphoria syndrome)」の概念が、私にとってはぴったりとした概念として感じられました。この本ではオートガイネフィリアとトラニーチェイサーを同区分として扱っているのが興味深い「異性装者」、それに「同性愛者」、それから「変性症」をしっかりと区分して論じているあたりで画期的だったと思ってます。
私が「エリザベス」に集まる女装家に対して抱く違和感は、そういうことだったんだ….と腑に落ちたわけです。
女装サロンのスタッフの方に「性転換手術をしても、ホルモンバランスの崩れでツラい思いをする人もいるから、バラ色の夢を見るな、気をつけろ」とお説教をされたこともあります。そもそもメイン客層の女装者とは違う、と思われていたようですね。

その後私は関西に行くことになりました。東京の「サロン女装」が基本的に「外出不可」だったのに対して、関西は外出OKなんですね。他の女装者とのお付き合いに関心がもてない私は、昼間に行って化粧をしてもらい、それから外出し、一人暮らしなので夜暗くなってから家に帰る、というパターンでした。女装家の「夜遊び」には全然関心がないんです。あんなの「オヤジのお楽しみ」と思ってましたし。

単に商店で服とか化粧品とか買って、が目的でした。問題はトイレでした。

平成になったばかりの当時、今でいう「多目的トイレ」はありません。徐々に「車いす専用トイレ」が作られつつあった時代です。健常者が使うと叱られます。ならば、個人経営の喫茶店やレストランの「共用トイレ」を使うしかないんです。これはあまりに不便です。

こういう外出経験を積んでいくと、やはりお店の対応などをこちらもしっかり観察するようになります。もちろんお店は客商売ですから「女装の男…」と分かっていても、顔には出さずに対応することも重々承知でした。少しお店の方と会話して、その後でそれとなく観察していても、何も起きていません。
びっくりしたのは、商店街を歩いていると、中年の女性に道を尋ねられるんです。スマホのない時代ですね。親切に教えてあげれば、にっこりと感謝されます…..しっかりした地元民だと思われるんですね。カフェで休憩していると、女子高生に使っていない椅子を借りていいか、と聞かれます。その女子高生グループを観察していても、とくにこっちを気にする様子もありません。

あれ?まったくバレない?
少しでも疑われていたら、こんな反応があるわけありません。女性たちの方から、私を「同性」として疑問なくアプローチしてきたわけですから、バレてないと見るのが普通の判断でしょう。

なら女子トイレを使っても….いやこれ痴漢行為だ、というのは重々わかってます。もし通報されれば謝っても済みません。しかしそれでも?

葛藤します。でも一度やってみたら?
デパートの女子トイレでした。たくさんの女性たちが並んでいます。その列に並びます。周囲は不審がる様子は見受けられません。そのまま自分の番になり、出てきた方が会釈して、会釈を返して使わせてもらいます….

もちろんこれ、良くないことです。性同一性障害なんて言葉もない時代ですから、最悪「不審者」で即捕まって迷惑行為防止条例などで恥をかくことになります。それでも使えてしまう….

悩みますが、使えてしまう、という事実の前には、どうしようもありません。申し訳ないな、とは思いながらも内緒で使わせていただくことになります….

いや開き直るつもりもないんです。「良くない」というのは分ってやってました。責任を取れ、と言われたら取るつもりもありました。

ごめんなさい。

と謝るしかないのですが、現在性別適合手術を受けて戸籍も女性にしている以上、謝ってもあまり意味がない、というのも感じます。謝ることさえ、できないんですね。困った….

いやもちろん、2021年の年末に。大阪の商業施設に女装男性が突撃した話がニュースになり、「性同一性障害」を口実にした女性スペース侵略が問題になったときに、それまでの「曖昧さ」が許されなくなった、というのはよく理解しています。それまでは私は「パス度原理主義」でした。「見た目で一切脅威を与えず、性的な目的があって使うのではないなら」でのお目こぼしを期待していました。

今、「トランス女性は女性だ」として「権利」として女子トイレの利用を認めよという声があります。その中には、性自認での食い違いはなく、「性表現の食い違い」といって女装て生活しているいうだけの人まで含まれます。
 しかし、女子トイレでは事件が起きています。女性スペースを守る会のほうで苦労してまとめたように、報道されてただけでもかなりあります。
 性自認で入って良いとなった国、更に法的な性別が手術もしないで変えられるようになった国では、もっと酷い事件もあるようです。

もう、私がしていた「曖昧さ」「お目こぼし」が許されなくなっています。性自認主義というのを主張されたために、シロクロをつけなければいけなくなったんです。
 現在では多目的トイレが多数設置されていて、それを利用することもできます。もう、女子トイレの利用も体による、つまり「戸籍の性別」による、と言うことにならざるを得ません。
 今、思います。あの頃のことはまずかった。男子トイレに入ると一部の男から嫌がらせがあったりして、良いかと思い入っていました。

ですが、「お目こぼし」を「権利だ」と主張すれば、もう「お目こぼし」はなくなります。活動家はバカなことをしたものだと思ってます。ですので、改めて私も確認しますが、今は、

・女性専用スペースの主権者は女性たちである
・だから、利用ルールは女性たちが決めるのであり、
・その結果には性別移行者は異議を唱えるべきではない

と考えています。トイレの歴史を見れば、もともと共同便所だったところから女子トイレができて、その残りが男子トイレになったのでした。これから先は、女子トイレはそのままにして、男子トイレは男子小便器を見ないで個室に入れる構造の「共用トイレ」にして、トランス女性やトランス男性も入りやすくなれば一番良いと思います。

私は「清廉潔白」とは言えないのは重々承知していますから、「お前が言うか」と批判されるのも甘受します。しかし「性同一性障害」「トランスジェンダー」という言葉がまだない時代からサバイバルしてきた立場として、懺悔を込めてこのように書くことにしました。